バンブツルテン

観たり読んだり聴いたり行ったり考えたり

三浦沙良さんのこと

私は筋少(というかおいちゃん)がきっかけでTwitterを始めたけれど、当初はマンガの話や、マンガ読み仲間との情報交換のために主に使っていて、Twitterユーザーとしてのスタンスも「マンガ好き」がメインだった。リトルプレス『大島弓子の話をしよう』も、それを手掛けた方が筋少ファンだとは知らずに、一読者として読んでいた。

だから後に、主にファン仲間との交流用に分離したアカウントで「『大島弓子の話をしよう』みたいな筋少の本を作りたい」となにげなくツイートしたら、彼女が「作りますか?」とリプライをくれて、とても驚いた。
彼女との最初の「会話」は、おそらくそれだった。もしかしたら、この時にフォロー返しをしていただいたのだったかもしれない。

ちなみに私はこの時より3年ほど前に5年間お世話になった会社を辞め、別の畑だった編集プロダクションに転職していたのだが、その選択をした動機のひとつは、「筋少の本を自分で作れるようになれたらいいなあ」だったりしたのだった。
その時はもちろん商業出版物としての発行を念頭に置いてはいたのだが、ZINE、リトルプレスという形でも、むしろそのほうが幸福な形にできるのではないだろうか、ということを、『大島弓子の話をしよう』を読みながら考えていたところでの、このやりとりだった。

発信力のある彼女に対して私は一読者、一ファンでしかなかったし、編集・ライティングの実績も作れてはいなかったので、彼女としては、思いやりというか、お気遣いで声をかけてくださったのかもしれない。それでも、これは自分にとって「夢」への道筋が一本できたような、とても大きな出来事だった。

それから数カ月後に私は在籍していた編プロを辞め、知人の誘いで(そして今振り返っていて気付いたが、この「知人」とは、私の誕生日に『大島弓子の話をしよう』をプレゼントしてくれた人であった。もともと購入するつもりでいたので驚いたのだが)マンガ関連の企画をいろいろやる会社で働くようになる。

この会社はそれから少し後にマンガ専門の書店兼ギャラリーを持つようになり、そして、このギャラリーで杉本亜未先生の原画展を開催させていただいたのが、2019年1月のことだった。

杉本先生の大変熱心なファンでもあり、映画エッセイ「杉本亜未のシネマタマシイ」を企画・編集された三浦さんと、仕事としての部分も含め、マンガの話をよくするようになったのは、おそらくこのあたりからだったと思う。

会期中には、はるばる足を運んでいただき、たまたま店番をしていた私の名札を見てお声をかけていただいたことで、ご挨拶させていただくこともできた。

この時、「なんかいろんなところで繋がってると思うんですけど…」みたいな、恥ずかしいオタクのノリでお話ししてしまったな~~!と今は思うが、このあたりからぐっと、(少なくとも私は)距離が縮められたように感じていた。

1970~80年代の少女マンガ、とりわけ私が大学生の時にハマって自分の中で特別な位置に置いていた『エロイカより愛をこめて』の話題をTwitter上で出すと、大抵構ってくださった。

そして、その2018年末あたりというのは映画「ボヘミアンラプソディ」が公開され大フィーバーを巻き起こしていた時期で、私ももちろんハマり、それをきっかけにQUEENの音楽にも初めてちゃんと触れたのだが、そんな未熟な私のつぶやきにもよく反応していただいた。

さらにさらに翌2019年には杉本先生の原画展の第二弾と、映画「プロメア」の公開時期が重なっていて、三浦さんの猛リコメンドを大きなきっかけのひとつとして私もしっかり「プロメア」にハマっており、この時も、Twitter上でわちゃわちゃと盛り上がらせていただいたのだった。

そして、そうした、三浦さんが猛烈にプッシュしていた作品以外でも、ぽろっとつぶやいた私の好きなものに、思いがけず三浦さんが反応してくださる、ということが、本当によくあった。

ことオタク気質の人間というのは、コミュニケーションにおいて、どれだけ相手との間に共通言語があるかを重視してしまい、重なる部分が多ければ多いほど親しみを抱いてしまうものだと思う。

それはただただ、彼女があらゆるカルチャーに通じた博覧強記の人だったから、私の好きになるものなどみんなカバーしていた、というのが全てではあろうけれど、「それいいよね!」の反応をいただける喜びのとても多くを、私は三浦さんに与えていただいていた気がする。

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あれ、と思ったのは、青池保子先生のムック本発売と、それにともなう原画展が告知された、2022年9月のことだったかと思う。
いつもならいち早く反応されるはずの三浦さんがタイムラインに現れない、と。
気になってアカウントを見に行ったら最終更新は6月。お忙しいのかな、とも思ったが、ツイートだけでなく「いいね」欄もそれ以降更新されていない様子で、気になった。まさか、と。

そして杉本先生が、今回の件に関するツイートをぽつぽつとされ始めてから、まさか、は、やっぱりそうなのか、に変わり始め、そして一昨日、それは事実となってしまった。

青池先生の原画展の話で喜び合ったり、でも会場が狭いですよねええと嘆き合ったり、きっとできたはずだったのに、できなかった。

11月に発売になった「いくぢなし(ナゴムver.サイズ)」の感想を聞くことも、叶わなかった。

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振り返れば面と向かってお会いできたことは一度しかなかった(拠点を異にする以上それは仕方のないことで、一度でもその機会が持てたのはむしろ幸運なことだったのではあろうけど)のに、こんなにも悲しい、と感じてしまうのは、「すごく好きなもの」をたくさん共有していた方だったから、というのがまず一つ。

そして、忘れたようで一度も忘れたことはなかった、あの日つながった細い細い「夢」への道筋が、これをもって断たれてしまったように感じたから、というのが、もう一つ。

私は結局現在、紙の本をつくる業界からはまた距離のある場所に来てしまっているのだが、それでもいつかは、という気持ちを今も捨てられずにいるのは、あのやりとりがあったからなのだった。

杉本先生の原画展という、彼女との距離が近づくきっかけをくれた当時の私の職場であったギャラリーはその後、移転した。私は一度はその職場を離れたが、今はまた少し手伝っている。

そうした活動のいろいろを、いつか、あの夢に結実させることができたら。
そこに彼女がいないのはいかにも不安で、寂しすぎるけれど、あの熱い志をなんとか形にできたら。

実現できてもできなくても、少なくとも今は、そう考えている、ということで、この文章を締めくくっておきたい。

三浦沙良さん、本当にありがとうございました。もっともっとあなたといろんなお話がしたかった。心よりご冥福をお祈りいたします。

うしなわれた推しを求めて(或はすかんち&筋少創業40周年大感謝祭を経て)

2022年8月12日(金)「すかんち筋肉少女帯創業40周年大感謝祭」@Zepp DiverCityに行きました。

このタイミングで、あれからのすかんちと自分、を整理しておきたい、というだけのメモ。

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■転校、禍、渦、鍋、の2019~2020

ドクターが「転校」したのが2019年の秋。
今はなき下北沢GARDENで「転校パーティー」が催されたのが2020年1月。
ほどなくして世界は禍、渦、鍋の時代に突入。
LOVE ME DOさん主催の追悼ライブも中止となり、直前のタイミングで無事に「転校パーティー」が開催されたことに感謝しつつ、そもそも「ライブ」というものとディスタンスをとらざるを得なくなった。

■「令和のすかんち」始動

2020年9月、ROLLYデビュー30周年企画の一環として、10月に「すかんち」のライブが行われることがアナウンスされた。

 

EXシアター六本木、筋少の2020年1stライブの前日。
情勢的には、たしか、少しずつ各ジャンルでイベントごとが再開されつつあるタイミング。
なのでそういう意味での心理的ハードルは低かった。
のだけど、とても迷った末に、私は配信のみで視聴。

この「令和のすかんち」最初のコンサートのことを、正直あまりよく覚えていない。

それはそもそも配信視聴を選んでしまったためでももちろんあるが、客入れ中のSEとして使われていた過去のライブでの歓声の中に「ドクター!」コールが飛び交っていて、始まる前からなんかダメージを負ってしまったことで、つらい感情が強く印象として残ってしまったためだった。

すばらしいサポートおふたりを加えた今のすかんちを、曇りのない目と耳で受け止めることができないコンディションだったと思う。


■しまちゃんねる、そして2021年

Shima-changYouTubeチャンネルが開設されたのが10月。
「転校」から1年が経ち、しまちゃんねるSTAFFさんのツイートで、ドクターのYouTube準備中だったことが明かされる。

www.youtube.com

 

すかんちが積極的に動いていなかった時期、The MANJIのゲストに出た時だったかな。
「友達のYouTubeに曲を作っている」みたいなことを言っていたっけなあとか、突然Twitter始めたのもそれがあったからだったのかなあとか。
きっとゆかいなYouTuberになっていただろうなと思って、とても残念にも思いながら、なんだか微笑んでしまったのだった。

そして2021年6月、夏に「すかんち」のツアーが行われることが発表に。

迷いながらも、川崎公演のチケットを私はとっていた。
…のだが、情勢はデルタが猛威を振るっていた第5波のさなか。
最終的には、チケットは確保しながら会場に行くことは見送ってしまった。
配信チケットも買ったのに、なんとなく観られないままだった。


■そして2022年の対峙

2022年5月、筋少との対バンが発表される。

前回のすかんちのライブを「なんとなく観られなかった」ことで、私は「令和のすかんち」を受け止められるようにはなっていないのだろうという自覚があって、もうこのまま、すかんちをライブで観ることは、なくなってしまうかもしれない、と思っていた。

ただ、ドクターのいない「すかんち」を受け入れたくない気持ちがある一方で、Shima-changを応援したい気持ちも、とても高い位置でそれと拮抗してもいて、それがまた苦しかった。

なので、否応なしに観るしかない、「筋少との対バン」というシチュエーションは、とてもありがたい、と思った。

けれど、当日までの間には、結構揺らいでもいて、最終的には、「すかんちを観る」とは思わないようにしよう、みたいな意識に落ち着いていた。

 

迎えた当日。先攻は筋少
イベント用ド定番セット+、時事ネタ絡めての「僕の宗教へようこそ」と、この夜にふさわしい「愛の讃歌」、という最高なセットリスト。
そして秋のリリースとツアーの告知…ということで、とにかくひたすらにハッピーな、まさに「楽しいことしかない」心境で転換へ。

 

そして後攻のすかんち
結局、そのステージ中、私は7割くらいの時間は、元気に腕を振り上げ手拍子をしながら、泣いていた。
こちらもイベント用のキャッチーでポップな曲ばかりのセットリストだったのだが、そのどれもが、ドクターのいるステージを観た、聴いた記憶が、しっかりと残っている曲だったので。

コースケくんの鍵盤にはたしかに、文明さんの遺伝子とともに、ドクターのフレーズも息づいていた。
けれど、それでも、「いない」ことはひたすらに、意識させられてしまった。

「創業40周年」の晴れがましい場に、どうして居ないのだろう、と。

すばらしいパフォーマンスでとても楽しくて、楽しくなればなるほど悲しくもなって、結局涙が止まらなくなってしまった。


やがて、ひたすらにたのしいセッション2曲でこの大感謝祭は閉幕。
めちゃくちゃな感情のまま会場を後にしたのでした。


■一夜明けて

翌8月13日は、ここに書いていることを自分の頭の中で整理(?)する時間になった。
音源を聴きながら、アメイジングすかんちDVDを見て泣きながら。


これはたとえば「太田さんが居ない筋少筋少とは認めたくない」みたいなことにとても近いのだろうとは思うのだけど、決定的にちがう点がひとつあって、それは「当人の意思に反する形で、絶対に何があっても二度とあの編成でのパフォーマンスを観ることは叶わなくなってしまっている」こと。

だからこそ、バンドが歩みを止めないのであれば、それは違う形になる必要があることは、とてもわかる。

寂しくてしかたがないのは、その新しい形が「ドクターの居なかったすかんち」がベースになっているように思えてしまうことだった。

ドクターは4th「OPERA」を最後に一度脱退していて、すかんちにはドクターがいないその後の2枚のアルバムの時期があって、物理的にはその体制に戻っている、と考えれば、バンドにとってそれはたぶん、さほど不自然ではないことだろうと思う。
そしてそのことがとても、寂しかった。

「恋のT.K.O.」も「恋人はアンドロイド」も(ワンマンでは演っても、イベントでは)演らない、という構成も含めて、「令和のすかんち」は、彼の残したものを必須にはしていないのかな、と思ってしまった。
いやもちろん、逆に、大切だからこそ、安易に扱わない、という姿勢なのだということかもしれないし、もしそうなら、ドクターのいるすかんちのファンだった人間に、こんなふうに思われてしまうこと自体が、バンドにとってはとても不本意だろうとも思うけど。

でもだって、「令和のすかんち」のパフォーマンスは、あまりに洗練されている。

(この違和感は、私が初めて後期すかんちの音源を聴いた時に抱いたものに似てもいる)

その美しくまとめあげられた演奏がすばらしいなあと思う一方で、この洗練をかき乱す存在こそが、自分がすかんちに感じていた最大といってもいい魅力だったことを、あらためて、まざまざと、認識してしまった。そして、その存在が戻ってくることは、二度とないことも。

 

■今のきもち

さて、散々めそめそしておきながら、今は、「このままで居たくはない」という気持ちが、強くあります。

それはひとつには、やはりShima-changの存在があるから。
がんばっているShima-changを久しぶりに目の当たりにしたことで、そこをすごく刺激された感は大きい。

そして、「令和のすかんち」の100%を、私はきちんと記憶できていないから。

気になって改めて確認してしまったが、私がまともに体験も記憶もできていなかった「令和のすかんち」ワンマンでは、「恋のT.K.O.」も「恋人はアンドロイド」も、演っている。そして私が立ち止まってしまっている間に、しっかりそれを受け入れ、敬意をもって楽しんでいるオーディエンスが、存在する。

私も、できることなら、そうなりたい。悲しさを凌駕するほどに楽しめるようになりたい。

きっとそれこそが、最高に理想的な状況であるはずだから。

そのためには、その意識を持って、生で、今のすかんちのフルライブを体験するしかないのではないかな、とも思っている。


秋のツアー、どうするか、まだ今は、迷っています。

 

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なんにもまとまっていないが、吐き出しておかないとスッキリしない気がしたので、とりあえず、メモとして。
いちいちダメージを負い過ぎないようになっていきたいな。

#すかんち

「君だけが憶えている映画」(筋肉少女帯)―共有できないことと、それでも共有できる誰かがいることの価値

日々の読んだり観たりしたものの雑多な記録はnoteに移行してしまい(それも最近またサボりがちですが…)、ますます手を入れなくなってしまった。
迷ったけど、一旦まとめてアウトプットはしておきたいなあと思ったので。

www.tkma.co.jp

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01.楽しいことしかない

open.spotify.com

youtu.be


第5波真っ只中の8月のライブでこれが初披露された時は、祈りのような、とても前向きな現実逃避の曲だと感じた。
筋少のようなバンドがこういうことを歌わざるを得ないということが、悲痛な状況をかえって実感させるようでもあった。
それでも、託すしかない、託したい、と思いながら頭の中で反芻してきた日々だった。

ところがなんということでしょう、たった3ヶ月で状況は瞬く間に好転した。
そしてコロナ禍ごく初期の頃にオーケンが、「急激に始まったことは、急激に終わるような気もする」と言っていたことも思い出す。

終わってはいない。
3回目のワクチン接種も待っているし、マスク手洗いは継続だし、ライブではまだまだ発声はご法度。
でも、毎日、新規感染者の少なさが報じられ続けている。

油断はせずに、楽観はしたい、と、祈ってしまうよね。

ところで、ふと復活以降のアルバムリード曲を並べてみたんですが、

・仲直りのテーマ(新人)
・ツアーファイナル(シーズン2)
・アウェー イン ザ ライフ(蔦からまるQの惑星)
・ゾロ目(THE SHOW MUST GO ON)
・混ぜるな危険(おまけのいちにち(闘いの日々))
エニグマ(Future!)
・オカルト(ザ・シサ)
・ボーン・イン・うぐいす谷(LOVE)
・楽しいことしかない(君だけが憶えている映画)

やっぱどう考えても「Future!」以降、なんというか、自由~~~!な感じがあるなあという気がしました。
すばらしいねー。


02.無意識下で会いましょう

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「だって 実際に逢ったなら/あとでさびしいこともあるぜ」の生々しさよ。

BARKSのインタビューで、橘高さんが歌っているのを想像しながら書いた、と語られていて、めちゃくちゃ納得してしまった。

www.barks.jp


アツい愛のメッセージは貴公子にお似合い。
そういえばいつからか、ライブでオーケン以外のメンバーが歌うコーナーやらなくなったな。
かわりに全編が少しずつコンパクトになってきている。

導入の感じとか、「LIVE HOUSE」を少し彷彿とさせるというか、それはつまりあの空間への望郷の念というか、ラブレターだよなあ、と思う。

オーケンはしきりに、オカルトとスピリチュアルは違うことを強調するけれど、外野から見るとまあまあ近しい箱に入ってはいるよね。笑
ただ、人為的な実害の発生しやすさという意味では、スピ界隈のほうが危ういとは思う、たしかに。


03.坊やの七人

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有頂天ぽい、というのは第一印象としてあったので、インタビューで答え合わせができた感じ。
ケラさんに歌ってみてほしい。

坊やにとっての『荒野の七人』はきっと、坊やだけが憶えている映画だったのだろう…みたいなことを考えたので、もしかしてこのアルバムは、「誰かの【自分だけが憶えている映画】が11本」というつくりのコンセプトアルバムとして捉えるといいのかな?とも考えたけど、「楽しいことしかない」「COVID-19」「そこいじられたら~はぁ!?」「お手柄サンシャイン」あたりはやっぱり違うかなあ、と思うから、そういうことではないな、と思い直した。
そういう意味で、一番直接的にタイトルを体現しているのが、この曲なのかもしれない。

おいちゃんロック&ポップスも、橘高メタルも、確かに私の好きな筋少には絶対に欠かせない要素だけれど、なんというか、筋少の核って、やっぱりこういう「変な」楽曲だよなあと思うし、そういうのを出してくるのってやっぱりうっちーなんだよなあ、と思う。
「Future!」の時、「エニグマ」を聴いてこれこれこれこれ!と思った、あの感覚。

ライブでは、みなさんとても楽しそうに演奏しておられるなあ、と思った。


04.世界ちゃん

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「楽しいことしかない」と、自分に言い聞かせるように歌う人の、表には出さない不安もしっかり取り上げておく。
それは意地悪とかじゃなくて、この二面性が当たり前に同居しているのがオーケンの詞世界だし、だから好きだと思う。

「安心は逆に危険」は、この夏、みんながおまじないのように聞かされ続けた、薄っぺらな「安心安全」を取り上げたものかな。


05.COVID-19

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な、なんて直接的なタイトルなんだ…と、誰もが思ったであろう曲。
そして私は、いまだに若干そう思っている。
個人的な印象として、もうひとつ処理しきれていない。

題材として避けられ得ないことではもちろんあるのはわかるのだけど、なんというか、そこは「作家」として、何らかのコーティングをしてほしかった…みたいな気持ちが少し。
一方で、それをしたほうが「作家」としては真っ当なことは百も二百も承知なうえで、あえて表現としてオーケンはこうしているのだとも思うので、複雑であるね。

茫漠とした大きな空間、という楽曲のイメージは、同じくうっちー作の「悲しくて御免なさい」に近いものがあるかな。

open.spotify.com


これも不思議な曲だった、そういえば。


06.大江戸鉄炮100人隊隠密戦記

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そこから続くのが安心と信頼の橘高メタルでほっとしますね。
現場でバタバタと倒れていく戦士とか、世界のDANGERだから結束しなければとか、打ちまくれ打ちまくれとか、パンデミックの香りは充満しているものの、この安心感はすごい。

前々作でボートにしがみつくゾンビを振り切った皆さん、
転生したら大江戸鉄炮100人隊だった件。(何となく言ってみたかった)


07.そこいじられたら~はぁ!?

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「オーディエンス・イズ・ゴッド」系統の、筋少オーディエンスの思ってることをそのまま詞にしちゃうやつ。
自分たちの音楽がコアファンにとってどういうものなのか、本当に正確に理解しておられるなあと思う。
おいちゃんらしい元気の良いロックンロールできもちがいい。

ただ、実は「バンド」とか「アーティスト」とか「ミュージシャン」という単語は一度も使われていないのだよね。
そういう意味では、突出して普遍性がある。


08.ロシアのサーカス団イカサママジシャン

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最初は「???…?…?」という印象だった曲だけど、イカサママジシャンのステージBGMなのか、というのがわかってからは、ストンと自分の中に落ち着いた。
字面と楽曲の雰囲気から個人的に連想するのは『ZOMBIEPOWDER.』のバルムンク。懐かしい。
電子化はされていないのか…。

mangapedia.com


09.ボーダーライン

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難解、というか、これ、という読み解き方はないのかもしれない、詩のような物語。
最初に一周した時に、一番新鮮に感じたのは、橘高さんが語っている、高いところからサビに向かって下がっていく構成が、やっぱりあまり耳慣れないものだったからなのだろうな。
でも、とても美しいと思った。
あと知識がないので、語りに入るとこで安直に「天国への階段みたいなやつ!」とか思った。


10.OUTSIDERS

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BERAさんの弾くこの曲を何度も聴いた。
その記憶がどうしてもよみがえってしまうことは避けられない。
実質的な追悼ライブが延期からの中止になってしまい、自分の中で整理しきれない宙ぶらりんの状態になっていたせいもあるかもしれない。
個人的に電車の曲をなんとなく聴けていなかったので、これで本当に久しぶりに聴きました。

楽曲と作曲者に対する深い愛情とリスペクトをまざまざと感じる、痛いように丁寧で美しい演奏であるなあ、と思った。
そして、静かでサイケデリックなアレンジではあっても、筋少が演奏することでグッと華やかに、メジャーな印象になった。
楽曲を演奏する機会が失われることを避けたいから、というこのカバーの動機には、
リスナーとしても、とてもありがたいものを感じるなあ、と思う。


11.お手柄サンシャイン

open.spotify.com

続く1行目の歌詞が、貫くように心臓に刺さる。
「ロシア~」~「ボーダーライン」~「OUTSIDERS」が組曲扱とのことだけど、それは詞の世界観がわかりやすく同じ言葉でつながっているということで、後から頭で理解したことであり、私には「OUTSIDERS」~「お手柄サンシャイン」のほうが、直感的に、もっともっと「ワンセット」に聞こえた。

おいちゃんのフレーズと、全体のメロディラインと、囁くようなコーラスは、どこまでも暖かくて泣きたくなるほど優しくて、まさしく気持ちのいい季節の日差しのようだと思う。
そこに物騒な単語が散りばめられて、筋少の世界になる。
言葉にできないような淋しさ、切なさから始まって、明るく着地する。
ここから1曲目に戻れば、とてもきれいな円環ができあがる。

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ローなアルバム、というのが第一印象でした。
なんというか、低い温度で、あえて一定に保たれているような。
元気いっぱいの楽曲もあるけれど、あくまでその上に一枚、「静けさ」で覆われているような。
この感想は少数派なのか、何か理屈が説明できるものなのか、わからないけど。
パーン!と派手でゴージャスなイメージが、あまりない。
クライマックスにあたるボーダーライン~OUTSIDERSがローな曲だからなのかな。

でも、その「温度管理されてる」感じが、美術館とか、博物館とか、それこそ映画館のようで、面白いな、と感じました。

「分断」「階層」を題材にした創作物は、コロナ禍以前から、ここ数年でとても増えていたと思う。
けれど、自分自身のことで手一杯で、周囲のことまで気にしていられなかった、というのが個人的な気持ちで、その感覚はいまも若干持続している。

「分断」を実感してしまう機会はもちろんとても増えた。
けれど、それをどうにかできる力が自分にあるとはあまり思えない。
ただただ、分かたれてしまっているんだなあ、と思いながら、日々をやり過ごすために、目の前の課題に取り組んでいくしかない、と思っている。

そういう意味で、「分断」「境界」に対する、このアルバムの問題意識みたいなものには、私の精神は追いついていなくて、それはそれだけ私の精神が幼い、あるいは、余裕がないということなのかなと思う。
そしてそれはつまり、私がこのアルバムを、本当に消化はできていないということなのかもしれない、とも。

それでも、そんな私でも、ただただ、サウンドと世界観の面白さから、何度も何度も繰り返し聴きたくなるアルバムだと、そう思っています。

そして、そんなもの寂しさを感じる一方で、じんわりとした心強さも感じる。

このコロナ禍を指して、「深夜に観た自分だけが憶えている古いSF映画のようだ」とオーケンは言って、それがタイトルになった。

それはオーディエンスにとっての、筋少のステージのようでもある。

人と人は完全にわかり合うことはきっとできないし、ひとりひとりの間には「視差」があることを、われわれは知っている。
だから、私たちはこの映画の記憶を、「共有」はしていないのかもしれない。

ただ、他方、「君」は英語で「You」で、「You」は「君たち」でもある。
そういう意味で、「オーディエンス」は、誰とも記憶を共有しない個の私たちかもしれないけれど、同じ記憶を分かち合う集合体としての私たちかもしれない。
(「audience」って集合名詞だ、考えてみれば)

誰とも共有できない自分だけの記憶は、それはそれで一種の宝物だと私は思う。
でも、そんな特別な記憶を共有できる秘密のコミュニティの一員であることも、なんだかんだ、楽しいよね。と思う。

「外」の人にはどんなに語って聞かせてもピンと来てもらえないのだろう、と思いながら、その記憶を常備薬に、映画みたいな日々を、われわれは暮らしていくのだなあ。と思います。

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体調の変化などもあり、「ひとりでいること」についていろいろ考えてしまうことが増えたので、なんだか若干ジメジメした締めになってしまった。

あまり深くクヨクヨ考えすぎずに、目の前のことを淡々と、こなしていきたいですね。
そうしている間に、世の中が、もっと良くなってくれるといいね。

2020年を振り返る【ライブ編】

いろいろありすぎたような、何もなさすぎたような、意味がわからない1年だった今年。ライブ実際にはほとんど行ってないしな~などと考えながら一応振り返り始めたら、いやいやこれは看過するわけにはいかないわちゃんとまとめておきたいわと思ってしまったのでまとめます。

有観客には★、有観客で行われはしたものの自分は配信のみで視聴したものには☆をつけたりしてみました。配信は有料視聴したもののみ取り上げています。

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1/19(日)竜理長「会席竜理長 竹」@高円寺JIROKICHI
1/26(日)QUEEN+ADAM LAMBERT「THE RHAPSODY TOUR」@さいたまスーパーアリーナ
1/27(月)すかんちすかんちpresents ドクター田中は転校生」@下北沢GARDEN★

2/29(土)水戸華之介「20×5=100 LIVE '20」w/澄田健@渋谷Acoustic live bar七面鳥

3/8(日)竜理長「次郎吉料理帖」@高円寺JIROKICHI

4/11(土)水戸華之介 with 吉田一休「スペシャル配信 ~アソビバ #1」@ツイキャス
4/19(日)特撮「緊急生配信新曲発表の夜」@ZAIKO
4/25(土)Zun-Doco Machine「ZDM プレミア配信ライブ ~アソビバ #2」@ツイキャス

5/29(金)水戸華之介&杉本恭一「華恭 プレミア配信ライブ アソビバ#3」@ツイキャス

6/13(土)水戸華之介「ウタノコリ プレミア配信ライブ〜アソビバ#4」w/澄田健、扇愛奈ツイキャス
6/21(日)筋肉少女帯シンクロニシティ筋肉少女帯メジャーデビュー32nd配信イベント」@ツイキャス

7/3(金)水戸華之介&和嶋慎治「プレミア配信ライブ ~アソビバ #5」@ツイキャス
7/26(日)大槻ケンヂ「元気です!オーケンです!! 大槻ケンヂ・無観客配信トークイベント」@ツイキャス

8/8(土)水戸華之介水戸華之介&OGR 〜アソビバ#7」@ツイキャス
8/30(日)cali≠gali/NoGod/ゴールデンボンバー/メトロノーム/筋肉少女帯
「CRUSH OF MODE-ENDLESS SUMMER 2020」@ツイキャス

10/17(土)すかんちROLLY DEBUT 30TH ANNIVASARY VOL.3 令和のSCANCH’N ROLL SHOW」@Streaming+ ☆
10/18(日)筋肉少女帯「2020 筋少 1st LIVE」@EX THEATER ROPPONGI ★

11/3(火)橘高文彦&本城聡章橘高文彦&本城聡章 弾き語り無観客LIVE」@ツイキャス
11/19(木)筋肉少女帯「2020 筋少 Final LIVE」@Streaming+ ☆
11/21(土)水戸華之介&澄田健「プレミア配信ライブ ~アソビバ #12」@ツイキャス

12/5(土)水戸華之介&MAGUMI「プレミア配信ライブ ~アソビバ #13」@ツイキャス
12/23(水)筋肉少女帯「12月23日の筋肉少女帯トーク」@ツイキャス

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有観客ライブ参加=6本
配信ライブ視聴=16本
計22本。
ここ数年は年間30本ちょいくらいで推移していたので、単純に足し算したとしてももちろんがっつり減りました。

視聴した配信プラットフォームはツイキャスがほとんど。
EXシアターでのすかんち筋少のみStreaming+、
特撮の新曲披露(アレを配信ライブと呼んでよいのかは微妙なところだが)のみZAIKOでした。
ツイキャスでのアイテムのアニメーションにもいつしか慣れ、それで遊ぶようにもなり。この形式をどうにか積極的に楽しもうとしてきたのだと思います。誰もが。

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■1/26(日)QUEEN+ADAM LAMBERT「THE RHAPSODY TOUR」@さいたまスーパーアリーナ

 
 
 
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もうここでうるさく書いてるのでだいたい出し切ってる感はあるのだけど、正直、私がライブというものに行くようになったこの10年の中で確実に5本の指に入る衝撃をもたらされた一夜でした。凄かった。ほんとに凄かった。ほんとに行けて良かった。

■1/27(月)すかんちすかんちpresents ドクター田中は転校生」@下北沢GARDEN

 
 
 
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で、その翌日がコレという。

 詳しい客観的なレポートはナタリーに。

natalie.mu

じめじめじめじめしていた自分の気持ちに区切りを打つことはできたかなーという感じでした。この2日間は心の動きが激しすぎてつらかった。

とても残念なことに、下北沢GARDENは後に閉店が決定。
渋谷AX、赤坂BLITZに続き、すかんち思い出の地がまたなくなってしまった。

2月下旬ごろから雲行きが怪しくなりはじめ、3/8の竜理長を最後にしばらくライブはおあずけに。自分が追ってきたミュージシャンの中では水戸さんがいち早く配信ライブに本腰を入れて取り組まれ始め、探り探りながら視聴していた日々でした。オーケンYouTube配信も活発に行われていた時期でしたね。

そして夏の終わりに迎えたのがコレ。

■8/30(日)cali≠gali/NoGod/ゴールデンボンバー/メトロノーム/筋肉少女帯
「CRUSH OF MODE-ENDLESS SUMMER 2020」@ツイキャス

youtu.be

最初のアナウンス時点では状況次第で集客も行うかもという感じだったけれど、結局無観客配信での開催に。しかしこれ、ビックリするほど楽しかったです。

筋少以外の出演バンドが全員「興味はあるけどなかなか観る機会がない」人たちであったこともあり最初から視聴に臨むモチベーションは高かったわけですが、彼ら全員が大変サービス精神にあふれた魅力的なミュージシャンたちであったこと、転換中にトークでつないでくださるなどのホスピタリティ(大変だったであろう)、そしてそしてもちろん全バンドパフォーマンスがめっっっちゃ良かったこと!

あと、これはいま書き出して気づいたけど、そもそも「バンド」のライブ自体が(配信とはいえ)久しぶりだったこともたぶん大きく作用して、とにかくアツいイベントになりました。

ちなみにその後しばらく金爆の動画をめちゃくちゃ見てしまうという後遺症に悩まされた。悩んでない。

■10/17(土)すかんちROLLY DEBUT 30TH ANNIVASARY VOL.3 令和のSCANCH’N ROLL SHOW」@Streaming+ 

EX THEATER ROPPONGIでの有観客ライブでした。
行こうと思えば行けた。でも少し迷って、配信視聴を選んでしまいました。
コースケさん、そしてザ・キャプテンズからテッドさんをサポートに迎え、欠席のShima-changのかわりにShima-changドールがちょこんと座ったステージで行われたコンサートは素晴らしかった。しっとり大人な令和のすかんち
でもどうしてもすごく泣いてしまった。正直な感想としては「キツかった」というのが大きく残ってしまった。これはもうごくごく個人的な問題で申し訳ない。

この後、Shima-changYouTubeチャンネルが開設され、未発表デモ音源が公開され始めました。その流れで、実は先にドクターのYouTubeチャンネルが企画されていたなんて話も。

www.youtube.com

なんなんそれ~~~~めっちゃ見たかったんですけど~~~~~~!

■10/18(日)筋肉少女帯「2020 筋少 1st LIVE」@EX THEATER ROPPONGI 

そしてその翌日は、実に実に実にひさしぶりの、待ち焦がれた、でもあまりにも発表が突然で動揺もした、筋少ちゃんのライブでした。

当日感じたことは↓で書いた。

banbutsuluten.hatenablog.com

オーディエンスからのレスポンスがない状況にオーケンも動揺されたようでしたが、でも、ほんとに、なんか、もう、ただただ、うれしかったんだよな……。

11月のFinalライブではすっかりコール&クラップの新しい筋少様式をものにされていて、その場に居られなかったことが本当に本当に悔しかったです。でも配信で観ることができて良かった。

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さて2021年、どうなるんでしょうね?

観測範囲内でも少しずつ、人数を絞ってのライブは行われるようになってきている。
検温、消毒、大声禁止ルールの徹底で、少なくとも「ライブ」という場は続いていけそうな感じになっている。
ワクチンが一般にも行き渡るくらいのタイミングには、何かいい動きがあるといいんですが。

個人的には6月にスティーブ・ハケット先生の来日公演を観る予定があり、先月くらいまではまあ大丈夫そうかなと思っていたのですが、よりによってイギリス、変異株問題、また怪しくなってきてしまったな…としょんぼりしています。

そういう意味では、ヨーロッパでもアメリカでも世界のどこでも、ミュージシャンたちが、パフォーマーたちが、一刻も早く平和にステージに戻ることができますように、という大きな願いを抱かずにはいられない。

ライブは、音楽は、生命活動の維持に必要なもの。
当たり前に生命活動を維持できる日々が来年の今頃には帰ってきていたらいいな。

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インスタの写真読み込んでくれなくなってしまったのでサムネ用。
QALもまた観たいです。祈りを込めて!

10カ月ぶりの筋少ライブでおもったこと

https://www.instagram.com/p/CGfK8UpAzx8/

2020筋少1stライブ。感情が言語化できなくて困る。ただただほんとうに、うれしくて、たのしくて、そしてあっという間でした。ありがとう!#筋肉少女帯

 

2019年12月23日以来の筋少ライブでした。
有観客ライブというくくりで言えば私は3月の竜理長@高円寺JIROKICHI以来、約7カ月ぶりです。

ライブは本当に楽しくて、嬉しくて、あっという間で、そして感情が大忙しでした。
そして、自分にとって「ライブ」って何だったんだろうか、ということを改めてしみじみ考えてしまったりしたので、言語化しておこうと思います。
ごく私的なメモみたいなものです。

 

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ここ半年ほど特に、自分がもともと持っていた「ごちゃごちゃいろんなことを考えすぎて疲弊してしまう」性質が、どんどん強くなってきてしまっている気がしていました。

で、ひさしぶりのライブを経て今、それってもしかしたら、ライブがないせいだったのかもしれない、と、思っているわけです。

私は自分の感情を表に出すことがあまり得意ではなくて、ふだんの生活の中で、人に対して激しい感情を発露するようなことを滅多にしません。
というよりも、「激しい感情を感じる」こと自体を、自分に対して制限しているようなところがある。
これはもう、長年の癖のようなもので、この年齢になってしまうと、なかなか変えられるものではない部分。変える努力はしたいけれど。
たぶん防衛機制みたいなことで、そうすることで自分を守っているんじゃないかなと思う。

その分というか、音楽とか、マンガとか、映画とか、そういうコンテンツで自分にハマるものに出会った時の感情の揺さぶられ方はすごくて、まあ単にオタク気質だからでもあるのだろうけど、のめりこむとすごく対象について調べてしまったりするし、熱くなるし、そういうものを観たり聴いたりしている時の涙腺はめっぽう弱い。

(そういう自分の性質をものすごく面倒なものだとも思っていて、そんなところから、筋少の「人間モドキ」のことを歌ってくれる楽曲たちを必要としている、という面もある。
喝采よ!喝采よ!」の「生まれ変わったなら普通に生きれるか/どうせまたここに立つ癖に」が個人的にかなり確度の高い涙腺決壊ポイントなのも、来世ではそういう面倒な性質を脱ぎ捨てられたら良いのに、と思っているからなんだよなあ、とも、今日のライブで改めて思ったりした。閑話休題

open.spotify.com

で、私にとってライブという空間は、もちろん好きなミュージシャンの、好きな音楽や、楽しいおしゃべりがぎゅっと濃縮された時間を楽しめる場でもあるのだが、もうひとつの大事な要素として、「好き!」「たのしい!」「うれしい!」という気持ちや、そういうシンプルな言葉では表現しきれない、ふだん封じ込めているさまざまな感情を、全身で感じて、そして放出できる場、であったんです。

そして、そうやって「心を動かす」機会を得ることで、自分の「考えすぎてドツボにハマって疲弊する」、いわば「頭ばかり動かしてしまう」性質を緩和させていたんじゃないかなと思っています。

なんつうか、重い客ですね!
でもしょうがない、そうなんだから!

 

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配信は生ライブの代替にはなり得ない。
それは演者も観ている側も十二分にわかってはいて、でもいまはそれを代替にするしかないし、だったらその状況を面白がるしかない、という思いでそれはおこなわれていると思います。

私は正直なところ、ここ最近結構、配信コンテンツに対して「しっくりこない」感じが大きくなってきてしまっていて、それがなぜなのかを今日のライブを経て考えてみて、たぶん、私がライブという場に求め、ライブという場で得ていた「感情を全身で感じて放出する」機会が、配信では生まれないからだ、という結論に行き着いています。

生ライブでそれができて配信でできない理由が何なのかはまだ言語化できていないのだけど、とにかく配信という、画面を隔てた形になると、そういう自分の感情に対する作用が、とても小さくなってしまう。

それでも、配信でも観たい、聴きたい、というライブはもちろんあるから、これからも観てはいくのでしょうが、なんかしみじみと、自分がライブという場で得ていたものが何だったのかを自覚したのでした。

今日のライブでは発声できなかったから、いつもの筋少のライブで存分にできていた大きな声での声援や、メンバーコールや、爆笑wや、おきまりのレスポンスができなかった。そういう、「大きな声が出せない」ことのフラストレーションは、もちろんありました。

でも、声には出せなくても感情は震えたし、それはいつものライブのように私の場合は涙になって発露させられた。
ライブをそういうことに「使って」いたんだなあ自分は、と改めて自覚して、なんだか不純な気もしてはいるのだけど、でもそうすることでおそらく精神のバランスを保っていたんだなあやっぱり、と納得してもいる。

つまり結局のところ、私が自分の性質を当面は抱えたまま健康に生活していくためには、生のライブが、特に、筋少のライブが、必要なんだよなあ、と思った、ということなのでした。

11月は参加できないのですが、この調子で行くのならば、新しいやり方に慣れながら、しばらくは、筋少は、このまま進んでくれるのだろうな、ということがわかった夜でもありました。

ありがとう。自分自身の健康のためにもずっと、できるだけついていきます。
どんな未来が待っているのかわからないけれど、一本指立てて叫びながら、どうにかこうにかやっていきたいと思います。

みなさんもどうぞ、健やかに、ご安全に。 

いま思うこと

まるでフィクションのような状況に全世界が放り込まれている昨今、いかがお過ごしでしょうか。

私は外出しなくてよい日は基本的にひきこもり、休日は音楽を聴きながら積読を消化したり、配信や円盤で映画や舞台やライブの映像を観たり、調べものをしたりして、けっこう楽しく過ごしています。

ちょっとインプット過多気味だなということもあり、こうなってだいたい1ヵ月が経って、なんとなく今よく考えてしまうことを書きとめておいてみようと思いました。

以下は、最新情報にそこまでがっつり食らいついていってはいない、本当ならライブや映画を観に行くのが好きな人間の思考というか、妄想です。

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海外では経済活動再開の動きが見られるようになってきた。

日本でも、長期にわたる「行動変容」が求められてはいるけれど、なんとなく、リスクの高い世代以外は「注意を払いながらできるだけ経済活動を再開させる(もともと止まってはいないけど)」ことが現実になっていくのではないかなあと感じている。

ごく個人的なざっくりとした感覚だけれど、自分がいま特に「行きたいのに、行けない」ことになっている場の中では、

・飲食店
・映画館
・書店
・美術館、文学館、図書館

このあたりは、おおむね、わりと早い段階で、営業再開されることが許容されていくのではないかなと感じている。
予約制にするとか、入場人数の制限や席の配置変更とか、そういうことが有効だろうし、いわゆる「密」なコミュニケーションがなければなりたたない場ではない。
最後の項目については今日、記事も出ていました。

this.kiji.is

そして、これを考えるのはほんとうにつらいなとは思うのだけど、

・ライブハウス
・劇場

これらが営業再開できるのは、かなり遠い未来なのではないかと感じている。
演劇もライブも、演者同士はもちろん、演者と観客や、観客同士も含む、いろんな意味で「密」な接触をすることが前提の表現なので。

(ということはつまり、その文化そのものの危機だということで、音源や、演者間で距離をとってのパフォーマンスや、配信などに対してまだハードルが低い音楽と違って、演者同士が近距離にあることが通常避けられない・配信(映像)にしてしまうと表現自体が別物になりかねない演劇に携わる人の危機意識が強いのも、さもありなんという感じだなあと思う)

じゃあどうなるのか。

新しいシステムを活用した「新しい方法」「新しい表現」の模索はたぶん続いていく。配信もだし、VRとか、そういう技術がたぶんどんどん進んでいくだろう。

その中で、これまで私たちが親しんできたライブや演劇の表現は、いったん「過去のもの」になっていく可能性があると思う。

でもそれはあくまで「いったん」であり、いつの話かはわからないけれど、いつか事態が収束したら、きっと人々はまた、リアルの場を強く求めるだろうとも確信している。

つまり、ライブや舞台が「未来に必ず復活する過去の文化」になっていくということ。

そう思うと、なんかすごく不思議というか、SFめいているというか、ちょっとだけワクワクもする。コールドスリープ感あるなあと。
自分がいま、観たくてしかたがないライブや舞台は、観られないままになってしまうかもしれない。それを思うと悲しいけれど、文化そのものが、いつか蘇生させられる日まで「保存」されるのは、ちょっと面白い気がする。

そのコールドスリープの間に文化そのものが忘れ去られ、死に絶えてしまわないように、なんとか持続させていかなければならない…という話に、結局はなる、わけですが。

この気休めのようなワクワクを素直に受け入れるためにも、表現をしてくれる人たちとその周辺が、必ず守られていってほしいと強く思う。

…まあ、その前になにか劇的な展開があってあっさり解決する、そんな未来が訪れる可能性だってゼロではないしね。

無理に楽観はせず、でも悲観もし過ぎず、なるようにしかならない現実を歩いていくしかない、と思っています。

おわり。

『八本脚の蝶』(二階堂奥歯)

その本に出会ったのは今から15年ほど前でした。

www.poplar.co.jp

黒地に細い金銀の線で描かれた「(おそらく)八本脚の蝶」の絵と、同じく細い線で書かれたタイトルのカバーが印象的な、分厚いハードカバーのその本は、大学生協にずいぶん長いこと平積みにされていた。当時から今に至るまで文芸書の単行本は滅多に買わないほうで、その時もとても興味を持ちながらもちらちらと立ち読みだけしていました。

ある若い女性が自ら命を断つまでの間、ネット上に綴っていた日記。
ブログやネット発コンテンツの書籍化がちょうど盛り上がり始めていた頃だったように思う。その経緯と、最初からわかっているあまりに刺激的な結末が自分の好奇心の的になったのだったと記憶しています。

当時私は、その本の「結末」にあたる部分だけ読んで、そのままその本のことは記憶の底に沈めていました。でもずっと忘れたことはなく、時々思い出さずにはいられなかった。

それが文庫で復刊。
「結末」を知っているだけに、少し迷いながら、15年も忘れずにいたからには読まなければならないのだろうなという思いで、結局手に取りました。

八本脚の蝶 :二階堂 奥歯|河出書房新社 

八本脚の蝶 (河出文庫)

八本脚の蝶 (河出文庫)

 

本と物語を愛し、幻想とカトリシズムと哲学の世界に棲み、フェミニストでマゾヒスト、を標榜した女性編集者。

生まれてから25歳までの間に、普通の人が一生どころか、100回生まれ直しても読み切れないぐらいの量の本を読んでいた彼女は、本と物語を通じて得た知と思索が、(おそらく)ちいさな身体にぎちぎちに詰まっていたような人だったらしい。

存在そのものが幻のような彼女の文章は、エキセントリックな部分がありながらもとても読みやすく、面白く、これが「日記」である以上、読者はどうしても彼女自身のファンになってしまう。

そしてこれが「日記」であり、その文章を面白く感じることは、多かれ少なかれ彼女に「憧れる」ことにもつながっている。

知りすぎてしまい、考えすぎてしまったことが、彼女を死に追いやったのか。そうだとしたら、それは読者にとってはおそろしいことだ。彼女の知に憧れ、彼女のように読みたい、知りたいと思えば、いつか自分も同じ結末を選んでしまうのかもしれないと思われるから。

でも、実際はそうではないと思います。

実の父からすら「いつかそうなる、そして自分にはそれを止められないと思う」と思われていたほどに、彼女の結末は純粋で、避けられ得なかった。

それは彼女が、何度も自らそう記しているとおりの、「マゾヒスト」であったことが大いに関係していた気がする。

彼女は物語に殉じると同時に、マゾヒズムに殉じたのかもしれない。世界に、自分の存在に、自ら進んで絶望し続けなければならなかった彼女の在り方は、そのままマゾヒズムの極致だったのでは、と思える。そこに読み手は少し救いを(こんな言葉を不用意に使われて彼女は憤慨するだろうが、申し訳ないけれど私はものを知らない人間なので、こういう簡単な表現をしてしまいます)感じてしまう。

彼女がそうなったのは、本当に世界のせいではなかったのだ、と。

そしてつまり、彼女が抱えたような苦しさを、病理性なくごく自然に感じてしまう人々は、程度の差こそあれマゾヒストであるということなのかな、とも。

このあたりは、マゾヒズムというものについて少し勉強しないと言及しえないことではあるけれど、少なくとも奥歯さんが本書の中で私に教えてくれた「マゾヒズム」とはそういうものであるように思えました。

それからより卑近な感想としては、あれほどの、異常といえるほどの量の本を読んだ奥歯さんにとっての恋愛ものベスト5に『ステーシー』がランクインし、何度も引用され、また彼女が筋肉少女帯の楽曲を愛聴していたらしいことは、ほんのりと嬉しいことでした。あと、『修道士ファルコ』に対しては、彼女はどんな感想を持っていたのかな。

このカテゴリを10年以上ぶりに更新するに際して社会人になりたてだった頃の自分が書いた文章にうっかり出くわして感じた気恥ずかしさは、今回『八本脚の蝶』冒頭を読み始めた時の感覚に似ていた。

奥歯さんがその身をもって愛し、殉じた物語の世界を、少しずつ私も覗き見させてもらいながら、なんとなく生きていようと思います。