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吾妻ひでお先生のこと

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本当にお疲れ様でした。
ありがとうございました。
どうかゆっくりお休みください。


ここから先は、ただの自分語りです。
手塚・藤子作品で育ってはいてもSFマニアではなく、まして残念なことにロリコンでもなかった(オタクではあったけど)現在30代の人間が吾妻ひでおというマンガ家に強い思い入れを持つようになった過程と、その理由。

訃報が思っていた以上にショックで、それがなぜなのかを自分で整理しておきたくなっただけの文章です。


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1986年生まれの私は、吾妻先生がSFとパロディと美少女萌えを携えてマンガ界・(今で言う)オタク界に旋風を巻き起こしていたその時代をリアルタイムで知らない。
でもずっとその名前は知っていた。それは、もともと自分が手塚先生のファンであり、そこから派生してマンガ全般の歴史に強い関心があったからだった。

初めて「吾妻ひでお」という人物を認識したのは『七色いんこ』の吾妻先生といしかわじゅん先生を模したキャラクターが登場するエピソードだった気がするし、どういうマンガ家であったのかは高校生ぐらいから読み漁るようになった「日本一のマンガを探せ!」(宝島社)などのマンガ情報ムックや、研究書や、「『プライム・ローズ』が吾妻ひでお的なものへの対抗意識から描かれたものである」という言説などで「知って」いたにすぎなかった。
私にとって吾妻先生が「好きなマンガ家」になったのは、明確に『失踪日記』がきっかけだった。

失踪日記』が出版された2005年、私は大学生だった。マンモス大でサークルに入っていなかったので学内に友人らしい友人もあまりおらず(現在まで付き合いが続いている人は悲しいかなひとりもいない)、授業の合間に新刊・中古を問わず本屋に通いまくり、図書館に入り浸り、マンガとその関連書籍を貪るように読んでいた時期だ。
現在も殿堂入りで好きな作品、好きな作家として挙げることの多いマンガやマンガ家の多くには、この頃に出会った。
萩尾望都先生や、大島弓子先生や、高野文子先生や、大友克洋先生のマンガをこの頃はじめて読んだ。リアルタイムで『魔人探偵脳噛ネウロ 』が連載されるジャンプを毎週買った。モーニング、イブニング、ビッグコミックビッグコミックオリジナル漫画アクションコミックビームあたりを購読していた。とにかくマンガという表現の、文化の幅広さと奥深さにのめりこんだ時期だった。

それはもちろん純粋な興味関心から来るものであったのは確かだけれど、のめりこむことで現実から目を背けていた部分があったのも今思えば否定はできない。
内向的でオタク気質で根が暗い人間にとって、友人の少ない学生生活は、不安もありつつも、それなりに快適で楽しいものだったが、その後に迫ってくるのが就職活動という恐怖のイベントだった。
ハキハキと受け答えができる、明るく社交的な人間を一生懸命演じなければいけない、存在するとは思えなかった「自分の長所」をでっちあげてPRしなければならないことは大きなプレッシャーだった。

結局、見よう見まねで臨んだ就職活動に私は失敗した。わざと必修科目の単位をひとつ落とし、就職留年をする道を選んだ。
(これを許容してくれたことに関しては両親に頭が上がらないと今更ながら思う)

2005年の『失踪日記』と、2006年の『うつうつひでお日記』は、そんな不安定な大学生だった頃に読んだ。
1年留年したのちになんとか社会人になったのだが、ヒトとのコミュニケーションに慣れていない人間にとって「社会」は思っていたより結構きついもので、きついな~という生活の支えは音楽(吾妻マンガと同じ頃に出会った筋肉少女帯はその後の私にとって信仰と言ってもよいくらい大切なものになった)とマンガで、そのマンガの中で吾妻先生の「日記」シリーズは特別な存在感を持っていた。


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私は吾妻マンガにぐっと惹かれていた。もともと知識として「知って」はいて、興味もあったから、掘り進め始めると早かった。
おそらく『失踪日記』が話題になったことでこの頃、各社がこぞって重版をかけたり、過去作を復刊したりしていた。たしかその流れでハヤカワ文庫の「アズマニア」全3巻も読んだ。
これが伝説の…とワクワクしながら読んだ『不条理日記』は、パロディの元ネタが半分以上わからなかったと思う。わからなくてもなんだか好きだ、面白い、とは感じたけれど、これの意味がわかるようになりたいなあという気持ちのほうが強く残った。手塚作品と藤子作品で育っているからSF的なものに強い魅力を感じる回路はあったけど、原典にあたろうとはそれまで思ったことがなかった。

(強いていえば、大好きな手塚先生の短編集「ショート・アラベスク」のあとがきで「フレドリック・ブラウン風のショートショートです」と書かれているのを見てからブラウンにはずっと興味があったけど。閑話休題)

結局、吾妻マンガに触れたことがハヤカワ・創元文庫の海外古典SFに意識的に手を出すきっかけになった。『夏への扉』を読み、ブラウンをいくつも読んだけど、ディックやヴォネガットはそれから15年を経た今でも攻略できていない。自分が夢中になってそれらの小説を読めなかった、SFマニアになれなかったことは、ちょっとショックだった。なんとなく、吾妻先生のファンを名乗る資格が得られなかったように感じた。一方的に親しみを覚えていた吾妻先生の世界で、後追いの自分が堂々と遊ぶことを許されるには、ロリコンかSFマニアでなければならないような気がしたのだ。そうして少しの後ろめたさや劣等感も持ちつつも、それでもやっぱり私は吾妻ひでおというマンガ家が好きだと感じていた。

吾妻先生のマンガ表現がとにかく好きになった。
ヒョウタンツギやらスパイダーやらに通じるところのあるキャラ使い、キャラ化された自画像でひんぱんに自作に登場するところ、スターシステム、手足の太い人物などには、もう言い尽くされていることではあるだろうけど、初期〜中期手塚作品の直系という感じがして、自分の一番深いところに埋め込まれている手塚好き回路がビンビンに反応した。
もちろん女の子の可愛さもたまらなかったし、陰のある美少女の叙情的でエロチックな物語、いわゆる純文学シリーズの詩性にも魅了された。

そんなふうに吾妻先生の絵を、フィクションでの作風を、キャラを、世界観を大好きになった一方で、私が吾妻先生に一種特別な思い入れを持ったのは、自分がどこまでも根暗でネガティブなオタクであるからだと思う。
私は大して優しくも真面目でもないので本格的に病を得ることには今のところなっていないが、前述したような不安定な大学生〜新社会人だった頃から今でも、世の中全般をつらいものとして、でも深刻になりすぎずにとらえる吾妻先生の視点に、大げさな言葉を使うなら救われていた。

大好きだと感じる表現をする人が、バイタリティあふれる前のめり人間ではなく、内向的な、あえておこがましい言い方をすれば、自分と近い気質であると感じさせてくれるのが嬉しくて、だから私にとって吾妻先生は特別だったのだ。

「うつうつ」とした日々や、ダメ人間の自虐を描く作家はほかにもいる。
でも、吾妻先生の、自虐と、静かなプライドと、突き放したクールな第三者視点と、読者フレンドリーな読みやすい構成と絵柄と笑いが同居する作風は唯一無二だと思った。
食べたもの、読んだ本、観た番組、などをひたすら淡々と綴る『うつうつひでお日記』のテンションがとても気持ちよかった。いつ、どんな精神状態の時でも読めるのがこの本をはじめとする吾妻先生のエッセイマンガ類だった。
だから、吾妻先生の作品にはいろんな魅力があるし、吾妻先生はいろんな功績のある方だけど、私はあえて、あのマンガ絵日記たちを描いてくださったことに感謝の意を表したい。

まとめると、「根暗でつねにいろんなことが不安で賢ぶりたい手塚・藤子作品育ちのオタク」にとって、吾妻ひでおというマンガ家は本当に特別な存在だった。
自分の気質の矯正を何度も試みたけれど、もうここまで来るとどうしようもないんだろうなとも思っている。だからせめて、吾妻先生のマンガがあって良かったな、と思っています。


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吾妻ひでおを『失踪日記』で語らないでほしいという声を見ての、あれがなければ吾妻先生のファン(を名乗ってよいものならば)になっていなかった身からの声も含めての雑感でした。

あちらから存分にかわいい子を眺めたりして楽しんでおられますように。

心よりご冥福をお祈りいたします。

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