バンブツルテン

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三次元の推しは

ある日突然、本当に突然、この世からいなくなってしまうこともある。

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すかんちのふしぎなKey&Vo、ドクター田中が先週、亡くなったとこのほどお知らせがありました。

ライブに頻繁に通い、バンドを、ミュージシャンを積極的に追いかけるようになってから私は今年でちょうど10年です。その間、「生で何度も観たことのある人が亡くなる」は3回経験しました。

1度目は小川文明さんでした。すかんちのもう1人のキーボーディストで、もちろんそれにとどまらない偉大なミュージシャンでした。とても悲しかった。でも、闘病中であることを知っていただけに、「おつかれさまでした」という思いが強かったです。

2度目はBERAさんでした。まだ1年も経ってないですね。これはもうとにかく突然でびっくりして、いまだに実感があまり持てていないところがあります。1週間くらいポンコツ化しました。あれからいまだに電車の音源をなんとなく聴けていません。

そして今回のドクター田中が3度目です。

あまりに突然であったこと、経緯が知らされていないこと、直前にTwitterを始めていて、まさに「先週」も更新していたこと、いろんな要素のおかげでBERAさんの時に輪をかけて現実感がなくていろいろ?????って感じなんですが、何より今までと違うのは、ドクター田中が、すかんちというバンドにおける、私の、いわゆる「推し」だったことです。

スタンディングのライブではいつもドクターの前に行きました。一挙手一投足に注目して、スベりMCに笑い、隣のサトケンさんとの仲良しぶりに微笑み、リコーダーやらギターやら自由なスタイルを面白がり、メインボーカルやコーラスで目立つ曲では全力で盛り上げ、ドクター!と声の限りにコールしていました。

DVDリリース記念ライブの後で催された購入特典の握手会で、会話禁止と言われながらどさくさに紛れて大好きです!と言い、反射的にありがとうございます、こちらこそ大好きです、と言ってもらったのは一生忘れないと思います。

電車は聴けなくなったのに昨日から今まですかんちばかり聴いたり見たりしています。なんでかなあ。実感が薄すぎるせいなのか、あまりにあっさりとした事実と自分の思い入れが乖離しすぎていてその間を埋めようとしているのか、手元や記憶の中にあるドクター田中の姿を繰り返し確かめないと自分の中からも薄らいでしまうような気がするのか。

ちっともわからないけど一つわかったのは、三次元に、現実に存在する推しはある日突然、何の前触れもなくいなくなってしまうこともあるのだということでした。わかりたくなかったなー。

取り急ぎ。いろいろあったしもちろん私が知らないこともたくさんたくさんたくさんたくさんあったのだろうと思います。今はどうぞゆっくり休んでね。

私は恋人はアンドロイドよりも涙のサイレント・ムービーが好きだけど、それでもライブで何回も聴いたから恋人はアンドロイドを聴くとしばらくは泣いてしまうと思う。あと、生で聴くことは一度もなかった涙 (but) no regretも。

怪演が印象深い好き好きダーリンや、渋公でコスプレで振り付け指導してくれたSugar Sugar Babyや、みんなでギターそろえてふざけてたスローソンの小屋や、コーラス→キーボードの切り替えがカッコ良かったMr.タンブリンマンや、文明さんとの役割分担が感慨深かったレターマンやロビタも。結局ぜんぶやないかーい

もう少し詳しいことが明らかになることや、お別れ(この言葉もマジで?????という感じだけど)を言える機会が作られることがあったらありがたいなと思っています。

最後に私が一番ドクターのことばかり考えていた時期のツイートをいくつか貼っておきたい。

 「このDVD」は「結成30周年TOUR Final!アメイジングすかんち2013」。

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あなたのことが大好きでした。大好きです。

 

*****

 

1週間を経て少し落ち着いたというか、混乱から抜け出して少し穏やかに向き合えるようになってきました。とはいえまだ実感はないんだけど。

人がいなくなった時に受けるショックというものは「それが予測可能だったか否か」×「距離としての近しさ」×「自分の想いの強さ・大きさ」の三要素に左右されるのだなということを感じています。今回は、というかつまり「推し」がいなくなるというのは、「近しさ」要素はゼロで「想い」要素がとても大きいという歪なケースなのだな。

ひとつ考えているのは、これは『この世界の片隅に』で晴美さんを喪ったすずさんが語っていたことだったと思うけど、生き続ける人は、いなくなってしまった人の笑顔の、記憶の「容れ物」になるのだ、ということ。

生きている人から完全に忘れられた時に、人は本当にいなくなる。

私はただの一ファンで、それも「晩年」という言葉で表現できてしまうごく近年の彼の姿しか観ていないけど、私が観たドクターは私の中にだけ、確実に存在している。それは彼がステージに立って、その最後の数年に、1人の人間を魅了したことの証だ。

だから、私には、私が観たドクターのことを絶対に忘れないでいるという役割があるのだと思った。それは彼の人生の中ではほんの一瞬のかけらたちにすぎなかったであろうし、ヘニョヘニョだったことも多いし笑、「そんなんはよ忘れろや〜」なんて言うかもしれないけれど。

忘れませんよ。ずっと大好きです。