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『八本脚の蝶』(二階堂奥歯)

その本に出会ったのは今から15年ほど前でした。

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黒地に細い金銀の線で描かれた「(おそらく)八本脚の蝶」の絵と、同じく細い線で書かれたタイトルのカバーが印象的な、分厚いハードカバーのその本は、大学生協にずいぶん長いこと平積みにされていた。当時から今に至るまで文芸書の単行本は滅多に買わないほうで、その時もとても興味を持ちながらもちらちらと立ち読みだけしていました。

ある若い女性が自ら命を断つまでの間、ネット上に綴っていた日記。
ブログやネット発コンテンツの書籍化がちょうど盛り上がり始めていた頃だったように思う。その経緯と、最初からわかっているあまりに刺激的な結末が自分の好奇心の的になったのだったと記憶しています。

当時私は、その本の「結末」にあたる部分だけ読んで、そのままその本のことは記憶の底に沈めていました。でもずっと忘れたことはなく、時々思い出さずにはいられなかった。

それが文庫で復刊。
「結末」を知っているだけに、少し迷いながら、15年も忘れずにいたからには読まなければならないのだろうなという思いで、結局手に取りました。

八本脚の蝶 :二階堂 奥歯|河出書房新社 

八本脚の蝶 (河出文庫)

八本脚の蝶 (河出文庫)

 

本と物語を愛し、幻想とカトリシズムと哲学の世界に棲み、フェミニストでマゾヒスト、を標榜した女性編集者。

生まれてから25歳までの間に、普通の人が一生どころか、100回生まれ直しても読み切れないぐらいの量の本を読んでいた彼女は、本と物語を通じて得た知と思索が、(おそらく)ちいさな身体にぎちぎちに詰まっていたような人だったらしい。

存在そのものが幻のような彼女の文章は、エキセントリックな部分がありながらもとても読みやすく、面白く、これが「日記」である以上、読者はどうしても彼女自身のファンになってしまう。

そしてこれが「日記」であり、その文章を面白く感じることは、多かれ少なかれ彼女に「憧れる」ことにもつながっている。

知りすぎてしまい、考えすぎてしまったことが、彼女を死に追いやったのか。そうだとしたら、それは読者にとってはおそろしいことだ。彼女の知に憧れ、彼女のように読みたい、知りたいと思えば、いつか自分も同じ結末を選んでしまうのかもしれないと思われるから。

でも、実際はそうではないと思います。

実の父からすら「いつかそうなる、そして自分にはそれを止められないと思う」と思われていたほどに、彼女の結末は純粋で、避けられ得なかった。

それは彼女が、何度も自らそう記しているとおりの、「マゾヒスト」であったことが大いに関係していた気がする。

彼女は物語に殉じると同時に、マゾヒズムに殉じたのかもしれない。世界に、自分の存在に、自ら進んで絶望し続けなければならなかった彼女の在り方は、そのままマゾヒズムの極致だったのでは、と思える。そこに読み手は少し救いを(こんな言葉を不用意に使われて彼女は憤慨するだろうが、申し訳ないけれど私はものを知らない人間なので、こういう簡単な表現をしてしまいます)感じてしまう。

彼女がそうなったのは、本当に世界のせいではなかったのだ、と。

そしてつまり、彼女が抱えたような苦しさを、病理性なくごく自然に感じてしまう人々は、程度の差こそあれマゾヒストであるということなのかな、とも。

このあたりは、マゾヒズムというものについて少し勉強しないと言及しえないことではあるけれど、少なくとも奥歯さんが本書の中で私に教えてくれた「マゾヒズム」とはそういうものであるように思えました。

それからより卑近な感想としては、あれほどの、異常といえるほどの量の本を読んだ奥歯さんにとっての恋愛ものベスト5に『ステーシー』がランクインし、何度も引用され、また彼女が筋肉少女帯の楽曲を愛聴していたらしいことは、ほんのりと嬉しいことでした。あと、『修道士ファルコ』に対しては、彼女はどんな感想を持っていたのかな。

このカテゴリを10年以上ぶりに更新するに際して社会人になりたてだった頃の自分が書いた文章にうっかり出くわして感じた気恥ずかしさは、今回『八本脚の蝶』冒頭を読み始めた時の感覚に似ていた。

奥歯さんがその身をもって愛し、殉じた物語の世界を、少しずつ私も覗き見させてもらいながら、なんとなく生きていようと思います。