バンブツルテン

観たり読んだり聴いたり行ったり考えたり

10カ月ぶりの筋少ライブでおもったこと

https://www.instagram.com/p/CGfK8UpAzx8/

2020筋少1stライブ。感情が言語化できなくて困る。ただただほんとうに、うれしくて、たのしくて、そしてあっという間でした。ありがとう!#筋肉少女帯

 

2019年12月23日以来の筋少ライブでした。
有観客ライブというくくりで言えば私は3月の竜理長@高円寺JIROKICHI以来、約7カ月ぶりです。

ライブは本当に楽しくて、嬉しくて、あっという間で、そして感情が大忙しでした。
そして、自分にとって「ライブ」って何だったんだろうか、ということを改めてしみじみ考えてしまったりしたので、言語化しておこうと思います。
ごく私的なメモみたいなものです。

 

----------------------

 

ここ半年ほど特に、自分がもともと持っていた「ごちゃごちゃいろんなことを考えすぎて疲弊してしまう」性質が、どんどん強くなってきてしまっている気がしていました。

で、ひさしぶりのライブを経て今、それってもしかしたら、ライブがないせいだったのかもしれない、と、思っているわけです。

私は自分の感情を表に出すことがあまり得意ではなくて、ふだんの生活の中で、人に対して激しい感情を発露するようなことを滅多にしません。
というよりも、「激しい感情を感じる」こと自体を、自分に対して制限しているようなところがある。
これはもう、長年の癖のようなもので、この年齢になってしまうと、なかなか変えられるものではない部分。変える努力はしたいけれど。
たぶん防衛機制みたいなことで、そうすることで自分を守っているんじゃないかなと思う。

その分というか、音楽とか、マンガとか、映画とか、そういうコンテンツで自分にハマるものに出会った時の感情の揺さぶられ方はすごくて、まあ単にオタク気質だからでもあるのだろうけど、のめりこむとすごく対象について調べてしまったりするし、熱くなるし、そういうものを観たり聴いたりしている時の涙腺はめっぽう弱い。

(そういう自分の性質をものすごく面倒なものだとも思っていて、そんなところから、筋少の「人間モドキ」のことを歌ってくれる楽曲たちを必要としている、という面もある。
喝采よ!喝采よ!」の「生まれ変わったなら普通に生きれるか/どうせまたここに立つ癖に」が個人的にかなり確度の高い涙腺決壊ポイントなのも、来世ではそういう面倒な性質を脱ぎ捨てられたら良いのに、と思っているからなんだよなあ、とも、今日のライブで改めて思ったりした。閑話休題

open.spotify.com

で、私にとってライブという空間は、もちろん好きなミュージシャンの、好きな音楽や、楽しいおしゃべりがぎゅっと濃縮された時間を楽しめる場でもあるのだが、もうひとつの大事な要素として、「好き!」「たのしい!」「うれしい!」という気持ちや、そういうシンプルな言葉では表現しきれない、ふだん封じ込めているさまざまな感情を、全身で感じて、そして放出できる場、であったんです。

そして、そうやって「心を動かす」機会を得ることで、自分の「考えすぎてドツボにハマって疲弊する」、いわば「頭ばかり動かしてしまう」性質を緩和させていたんじゃないかなと思っています。

なんつうか、重い客ですね!
でもしょうがない、そうなんだから!

 

----------------------

 

配信は生ライブの代替にはなり得ない。
それは演者も観ている側も十二分にわかってはいて、でもいまはそれを代替にするしかないし、だったらその状況を面白がるしかない、という思いでそれはおこなわれていると思います。

私は正直なところ、ここ最近結構、配信コンテンツに対して「しっくりこない」感じが大きくなってきてしまっていて、それがなぜなのかを今日のライブを経て考えてみて、たぶん、私がライブという場に求め、ライブという場で得ていた「感情を全身で感じて放出する」機会が、配信では生まれないからだ、という結論に行き着いています。

生ライブでそれができて配信でできない理由が何なのかはまだ言語化できていないのだけど、とにかく配信という、画面を隔てた形になると、そういう自分の感情に対する作用が、とても小さくなってしまう。

それでも、配信でも観たい、聴きたい、というライブはもちろんあるから、これからも観てはいくのでしょうが、なんかしみじみと、自分がライブという場で得ていたものが何だったのかを自覚したのでした。

今日のライブでは発声できなかったから、いつもの筋少のライブで存分にできていた大きな声での声援や、メンバーコールや、爆笑wや、おきまりのレスポンスができなかった。そういう、「大きな声が出せない」ことのフラストレーションは、もちろんありました。

でも、声には出せなくても感情は震えたし、それはいつものライブのように私の場合は涙になって発露させられた。
ライブをそういうことに「使って」いたんだなあ自分は、と改めて自覚して、なんだか不純な気もしてはいるのだけど、でもそうすることでおそらく精神のバランスを保っていたんだなあやっぱり、と納得してもいる。

つまり結局のところ、私が自分の性質を当面は抱えたまま健康に生活していくためには、生のライブが、特に、筋少のライブが、必要なんだよなあ、と思った、ということなのでした。

11月は参加できないのですが、この調子で行くのならば、新しいやり方に慣れながら、しばらくは、筋少は、このまま進んでくれるのだろうな、ということがわかった夜でもありました。

ありがとう。自分自身の健康のためにもずっと、できるだけついていきます。
どんな未来が待っているのかわからないけれど、一本指立てて叫びながら、どうにかこうにかやっていきたいと思います。

みなさんもどうぞ、健やかに、ご安全に。